柔道整復師という職業との出会い

院長が柔道整復師という道に進むきっかけは、他の先生方のように崇高な動機ではありません。

高校時代、柔道に打ち込んでいた院長は、3年生の夏休みになっても進路について深く考えておらず、具体的な計画もありませんでした。

柔道の稽古に一生懸命だった彼にとって、進路はまだ遠い未来の話だったのです。

そんな院長を見かねた父親が、ある日「柔道整復師という資格があるらしいが、やってみないか?」と提案してきました。

その提案を受けた時、院長は「そんな資格があるのか」と思っただけで、それほど真剣に受け止めていませんでした。

当時、「接骨院」という職業は、今のように広く知られていたわけではなく、「ほねつぎ」などという古めかしい看板がかかっているイメージがありました。

それでも、柔道部の顧問の先生からも「やってみる価値がある」と勧められ、大阪にある「学校法人行岡保健衛生学園」の「行岡整復専門学校」を受験することに決めました。

専門学校といえども合格するのは難しいと聞いていましたが、受験勉強にあまり時間をかけていなかったにもかかわらず、2月末に合格通知が届いたのは驚きでした。

修行のはじまり

合格通知が届いたことで一安心していた院長ですが、実は父親と顧問の先生が水面下で進めていた計画がありました。

それは、神戸市長田区にある「横山接骨院」で住み込み修行をさせるというものでした。

この話は院長にとって事後報告であり、有無を言わさず引っ越しの準備が進められていきました。

学校に通いながら実地の仕事も学び、早く一人前になれるようにという考えのもとでした。

そして1978年4月10日、神戸市長田区にある横山接骨院での住み込み生活がスタートしました。

院内は院長の横山先生を含め5人で運営されており、朝9時から夜20時まで忙しく働き、さらに大阪にある学校にも通うという、非常にハードな毎日が始まりました。

横山先生は、院長に対して手先の器用さを求め、包帯巻きや湿布作りを繰り返し練習させました。

最初のうちはなかなか上手くいかず、求められる技術の厳しさに苦労しましたが、それでも午前中には60人、午後には70人の患者を受け入れる日もあり、忙しさの中で少しずつ成長していきました。

昼食を急いで済ませた後は、駅まで走り、大阪にある学校へ向かいます。

片道約50分の電車移動は貴重な休憩時間であり、電車内での睡眠が日常となりました。

学校では生理学、解剖学、病理学といった基礎医学や専門科目の厳しい授業を受け、講義が終わると再び院に戻り、夜遅くまで施術をこなすという生活の繰り返しでした。

忙しい日々の中で唯一、土曜日の午後だけが少しだけ息抜きできる時間でした。

神戸での研修時代

1980年代初頭、院長が柔道整復師の資格を取得した頃、神戸市は大きな発展を遂げようとしていました。

1981年には「ポートピア81」として知られる「神戸ポートアイランド博覧会」が開催され、全国から観光客が神戸を訪れ、街全体が活気づいていました。

院長が修行をしていた長田区も、「くつのまち」として全国的に知られており、特にファッション性に富んだケミカルシューズの製造が盛んになっていました。

街のあちこちで靴の製造作業が行われ、靴底を貼る音やミシンの音が朝から夜遅くまで響いていました。

この時期、靴の製造に従事していた多くの職人さんたちはオーバーワーク気味で、疲労が蓄積しているにもかかわらず、仕事に精を出し、明るく元気に働いていました。

横山接骨院にも、使い痛みやギックリ腰、寝違え、骨折や脱臼といった患者が絶えず訪れ、院内は常に忙しい状態でした。

院長を含む5人で施術を分担しながら、1日に200名を超える患者を診る日々を送っていました。

午前中の施術を終え、昼食後には近隣の病院でリハビリを担当し、午後も接骨院で仕事を続ける、そんな忙しい日々が約10年続きました。

加古川で独立開業へ

院長が結婚を機に神戸市長田区から西区へ引っ越したのは1989年のことでした。

当時、院長は横山接骨院の垂水分院で勤務していましたが、翌年1990年9月に長女の誕生を機に加古川で開業することになりました。

この時期、ちょうどバブル景気が終焉を迎えており、企業のリストラが話題になっていました。

しかし、開業資金を銀行から融資を受けたときの金利は、まだバブル期の影響が続き8%という高額なものでした。

今では考えられないような金利でしたが、院長は妻と小さな娘を抱えてがむしゃらに働きました。

開業当初、患者さんの数はなかなか増えませんでしたが、院長は月曜から土曜の9時から12時、そして16時から20時まで施術を行い、昼休憩の時間には以前勤務していた須磨浦病院のリハビリ室で週3回アルバイトをしていました。

苦しい時期でしたが、月7万円のアルバイト代が経営を支えてくれました。

成長と責任感

その後、近隣のピープルスポーツクラブ(現・コナミスポーツクラブ)の子供たちが次第に来院するようになり、院は徐々に忙しくなりました。

特に水泳や体操をしている子供たちは怪我が多く、全国レベルの選手も多かったため、試合に間に合わせるため、またベストの記録を出せるため、責任を感じながら施術を行っていました。

この時期施術者としての自信がさらに深まり、技術的にも大きく成長したと感じました。

当時施術を行った子供たちが、今では親となり、自分の子供を連れてきてくれることは感慨深いことです。

治療家としての終わりなき道

院長の修行時代は18歳から始まり、12年間に及びました。

そして、1990年に独立してから今年で34年が経ちます。

治療家としての道のりは決して簡単ではなく、多くの患者さんに支えられてここまで来ました。

この40年以上の間に、医療の技術や治療法は進化し、患者さんのニーズも大きく変化してきましたが、院長は息子である副院長とともに常に学び続け、この道を極めるために努力を続けています。

柔道整復師として、40年以上の経験を積んできましたが、まだまだ奥深く、学ぶことは尽きません。

しかし、若い頃にたくさんの患者さんを施術させていただいた経験のおかげで、素早く的確に患者さんの痛みを和らげる技術と治療哲学を培うことができたと感じています。

これからも研鑽を積み、皆様のお役に立てるよう努めてまいります。